〜金光教スカウト協議会の歴史〜


スカウト活動に接する
  イギリスでボーイスカウトが始まったのが明治40年、 同42年に日本にその内容が北条時敬によって伝えられた。 中村知は、北条の少年団に関する日本最初の講演は明治44年1月に 広島高等師範学校で行ったものが 最初であると書いている(『少年団研究』昭和8年11月号)。 月が変わった同年2月12日、金光中学校(現金光学園)では 教育懇話会15周年記念講演が、 近隣の校長や教育関係者を招いて開催された。 この時の講師が北条時敬でテーマは「少年武者修行」 すなわちボーイスカウトについての講演であった。 この講演の内容は「大教新報」(当時の金光教の新聞)で 5回にわたって連載されている。 金光教の教監の佐藤範雄は元号が大正と変わった時、 各地で「大正の国民」と題して講演をしているが、 この話の内容に「少年武者修行の規則」 すなわちスカウトの「おきて」の内容を用いているのである。
  ところで大正10年に昭和天皇がイギリスに行かれ、 ベーデン・パウエルと面会したことが報道された。 これを聞いた佐藤一夫はボーイスカウトを発団させようとの 願いをたてていたが、関東大震災で中断を余儀なくされた。 佐藤一夫は、当時社会活動を展開していた 金光教の教徒新聞社の責任者であったところから、 大正12年の夏に社員の内田律爾を大阪の曽根崎少年団に出張させた。 内田はその活動の実際を目で見、隊長に会い、 組織・訓育方法を調査してきた。 さらに大正13年1月、金光中学の教員の三宅武坪を上京させ 8日には文部省の少年団調査員の奥寺龍渓に会いその概要を聴取した。 たまたま、その日の午後、 報知新聞社の講堂でスカウト宣伝映画会がある事を聞き、 そこで久留島武彦、三島通陽等に会って少年団の話を聞き、 活動の支援の約束を受け、原書の参考書等も教えてもらった。 更に11日には浅草区の少年団の活動を見学し、 ボーイスカウトに関する知識を深めた。
スカウト活動の開始
  かくして、大正13年1月10日金光教徒新聞社は、 東宮御成婚記念事業として、 金光教少年団の創立を宣言する記事を一面に掲載し、 同月26日に金光教少年団発会式を挙行したのである。 創立の宣言の概要は次の通りである。
       少年が神から与えられた「天真」を発揮でき、 「善き心身活動の習慣」が体得できれば、 少年自身の幸福にとどまらず「国家の繁栄の基礎」となり、 「世界人類の福祉」につながる。 この願いを実現することこそ 「教祖御立教の精神」に報いることなので、 「本教の精神に満ち満ちたる」少年団を組織する。       
  これは金光教スカウトの連合組織で、 当初の役員は理事長の金光国開以下9人であった。
   実際の活動する団が出来たのは 8日後の大正13年2月3日である。 信奉者は金光教本部の聖地を 霊地 れいち と呼んでいたので、 団の名称を金光教霊地少年団とし、 団長、副団長、顧問、 幹事の6人の幹部と初代の団員7人で 記念すべきスカウト活動が開始されたのである。 その後霊地少年団は、大正14年1月10日には 尋常4年生を集めてウルフカブを発団させ、 同年4月にはスカウトの卒業生によってローバー班が誕生した。 さらに昭和3年11月3日には霊地双葉団 (ガールスカウトの前進、健児団とは別組織)も発団したのである。 やがて大阪の金光教京町堀教会、金光教桃山教会、 金光教天王寺教会と次々に団が出来てゆき、 カブやローバーなどの団員も加わってきたため、 昭和4年には金光教健児団と名称を変更し、 同5年には、金光教少年団を金光教健児母団と改称した。
   これより前、昭和3年10月2日には昭和天皇の即位大典を記念し、 有志の協力を得て少年団ハウスの竣工式が行われた。 二階は応接室、準備室、講堂、一階は編集室、 倉庫、それに少年団(健児母団)本部である。 階上の講堂は、以後、 種々の集会や展覧会などの会場にも使用されることとなった。 以後、日本連盟の総長の後藤新平をはじめ、 佐野常羽、三島通陽、 また戦後のボーイスカウトを推進して歴史に 名を残した多くの指導者たちが、 金光教のスカウトの拠点としての この建物を訪れることとなったのである。
   かくて母団では、瀬戸内海の無人島での毎年の合同キャンプや、 創立記念式・記念ジャンボリーなどを実施するとともに、 母団独自で日本連盟主催の指導者実修所を 開設するほどの内容を培ってきたのであった。 戦前のボーイスカウト活動は昭和16年の大日本青少年団の結成によって 中断を余儀なくされるが、 ここまでに金光教健児母団に所属する団は26個団を数えたのであった。 なお、これらの団は母団に所属する団で、 金光教サンフランシスコ教会(北米)のボーイスカウト58小隊や、 金光教の忠信小学校(中国)の忠信童子軍は加えていない。
KHBSの活動
   戦後のボーイスカウトは、 GHQから条件付きで再建の内諾を得て、 昭和22年1月に試験隊を東京に5こ隊、 横浜に1こ隊を結成しているのが最初であるという。 そして昭和22年10月15日現在、 全国で92こ隊が仮登録をすませた。このような経過の中、 金光教本部のボーイスカウトも 昭和22年5月1日に日本連盟に仮登録を完了させたのである。
   これより前、金光教健児団はスカウト活動を いつでも再開できるように、母団のテント、 炊事具、工具などの備品を軍の供出命令をかいくぐって保存していた。 霊地では戦前に健児団活動をしていた者が 次第に復員してくるや、双葉団の経験者などと共に、 昭和21年夏ごろからその再建の準備が進められた。 この中には実修所の所員経験者も複数人含まれていた。 そして、昭和22年2月11日に、 金光教本部教会少年団(ボーイスカウト・ガールスカウト、18班で発足)が 結成されたのである。しかし、実際の集会はこれより前から始めており、 記録上では昭和22年1月26日の「幼年部集会」が最初である。 ちなみに東京、横浜に試験隊が出来た頃と同じ月である。
   発団にあたり制服など揃えられないので、 せめてネッカチーフだけでもと、布を調達し染めて作った。 その後男子は「金光教本部教会ボーイスカウト」の名称を使用し 「KHBS」と略称するワッペンを作り、 通学用の服の肩に「KHBS」のワッペンを縫いつけて スカウト活動をしている。 昭和23年8月に倉敷市の沙美海岸で実施した キャンプの合同写真には「金光教本部教会BS第二回CAMP」と 文字が入っている。この時の写真にはネッカチーフと 「KHBS」のワッペンが用いられていることが確認できる。 このキャンプにはGHQ岡山事務所からトッド女史等が 視察に来ているので、「金光教本部教会ボーイスカウト」の活動は GHQも認めた活動と言える。そして日本連盟は、 昭和24年1月20日に18番目の隊として 浅口第1隊を正式認可したのであった。 そしてこの年の9月24日〜25日にかけて開催された 皇居前のボーイスカウトの全国大会時に、 浅口1隊のブラスバンドが全国のトップをきって銀座通りなどを行進した。 この時にやっと「KHBS」から 浅口1隊のボーイスカウトの制服を全員揃えることができたのであった。
金光教ボーイスカウト育成会の結成
   昭和22年の暮れ、昭和天皇が倉敷に宿泊された時、 県知事との間で次のような話があったという。 県知事「青少年の道義が一部廃退しております」、 天皇「宗教、信仰の力を活かす必要があるのではないか」、 県知事「本県には金光教、黒住教という 大きな教団があるので働きかけたい……」。 この内容が新聞に掲載されたこともあり、 金光教の議会でもこのことが取り上げられた。 当時金光教教監はスカウト活動を本教に取り入れた佐藤一夫、 また、総務部長の井上定次郎は、戦前には大阪連盟の理事長でもあり、 当時日本連盟の地方理事にも就任していた。 このように教団の中枢にボーイスカウトの理解者がいたのであった。 しかし戦前と同様に、スカウト運動は教団が担うことはせず、 任意団体として教団の支援を受けながら 自由な立場で展開していったのである。
   金光教本部少年団を核に、戦前にスカウト活動をしていた 各地の仲間が集結し、全国組織を作ろうという機が熟してきた。 そこで金光国勢は三島通陽に対して、 昭和23年2月17日来岡の機会をとらえ、 金光へ宿泊するように要請し、 18日に金光教のスカウト関係者に講演を依頼した。 これを機会に2月20日金光教ボーイスカウト育成会が正式に発足した。 役員は理事長の金光真整以下、理事、委員、監事など21人で構成された。 この中には今田忠兵衛や金光国勢、金光整雄なども名を連ねている。 規約は次のように定められた。
       3条  本会は本教ボーイスカウトを育成することを目的とする。
4条  本会はその目的を達成するために、次の行事を行う。
  1、本教ボーイスカウト及び少年少女会の育成指導。
  2、本教ボーイスカウト及び少年少女会の指導者の育成。
  3、本教ボーイスカウト及び少年少女会の相互の連絡提携。
  4、その他本教ボーイスカウトの発達に寄与する事業。
      
  そして次のような宣言が採択された。
          新日本建設途上、誠に憂慮すべきことは、 道義のたい廃であり、少年少女の不良化である。 明日の日本を担う者は少年少女であり、 その動向如何は日本の将来を決するものである。 われわれは日本のお道の若葉(注、子供たちのこと)、 少年少女の健全なる発展を祈念し、 少年少女各自が持っているうるわしい個性を伸ばし、 社会のお役に立つ人となるよう、互いに祈り、 磨き合う楽しい集いを、全国各教会に作られることを念願して、 ここに金光教ボーイスカウト育成会を結成することを宣言する。
   本教ボーイスカウトは本教の教旨を基調とし、 これに盛るに少年少女本然の性情に 最もよく適したボーイスカウトの訓育法並びに その組織をもってせんとするものであり、 縦には本教信徒会、婦人会、青年会につながる立体的組織として、 有機的な働きをし、横には世界に通ずる ボーイスカウトと共に連絡提携して世界まことの平和実現のため、 まい進せんとするものである。
   本教ボーイスカウトは第一に少年少女のために、 第二に日本の将来のために益々発展させねばならぬ。
   われわれは立教90年の御取次を頂き、 輝かしい伝統を持つ本教ボーイスカウトのいや栄なるよう、 精進せんことを誓う。
昭和23年2月20日

金光教ボーイスカウト育成会
      
   そして同年4月1日に活版印刷のボーイスカウト育成会の 『わかば』1号が刊行された。これは少年少女会連合本部に引き継がれ、 現在まで毎月1回発行されている。また6月26〜28日には 第1回のBS公認講習会を金光教本部で 開催(昭和26年まで13回実施)し、 8月5日には第一回金光教全国少年少女大会(今日まで毎年開催)を 開催したのである。
   この「ボーイスカウト育成会」は、 スカウトだけを育成するだけでなく、 より広い立場からということになり、 本育成会を発展的に解消させて、昭和24年4月15日に 金光教少年少女会連合本部と改称し、 金光教スカウトは金光教の少年少女育成を幅広く支えることとなった。 とともに、スカウト関係者が集まり「金光教スカウトクラブ」を作り さらに「金光教スカウト協議会」へと展開していったのである。
※参考   金光教少年少女会連合本部ホームページ
   なお、もっと知りたい方、資料が見たい方は 金光教スカウト協議会、金光図書館などに連絡下さい。